onmanseisiyouriのブログ

多聞天の様に真実を聞く耳を持ち、広目天の様に真実を見据える

「「真の父母様」の価値と立場  ⑤

私たちの日常生活も含め、信仰生活に於いて、み旨の為、真の父母様の為ならと色々な形兄弟姉妹(食口、二世も含め)の一人や二人を犠牲にしてもやむを得ないと考えたり、あるいは犠牲にしている事が自覚できない場合がある、あったかも知れませんが、犠牲にしてもやむを得ないと考えているその一人や二人の救いの為に、天の父母様と真の父母様がご苦労されていると云う認識こそアベル、カインの問題を解くカギがあると想われます。私たちは最初に聖書を交えながら原理講論のみ言葉を学び、(御父母様から直接に、また講師からあるいはメディアを通じて、その他、教会の中心者から間接的に聞き)原理講論はじめ多くのみ言葉集から纏め(まとめ)られた天聖経、父母経、平和経、平和を愛する世界人として、平和の母、天の父母様聖会訓読本、等々を訓読しているので「真の父母様」に対して余りにも当然過ぎて(最初に「真の父母」ありきの上で考え、行動する事が自然体として)「真の父母」についてのみ、取り出して考える事は少ないと想いますので、ここまで書き綴った内容に目新しい事は感じられないと想います。しかしながら自分も含め、ご子女様、ご家庭、分派、離れていった食口達、(残念な事に一部の功労を積まれておられた大先輩達が真のお母様のもとを離れてゆく姿を見るにつけ)また、二世の深刻な問題が起こるのは、まず最初に「真の父母」在りき、と云うことが徹底されていない為だと想うからです。(もちろん「天の父母様」=神様ありきの上での事は云うまでもありません。くどいようですが絶対相対として目にみえぬ天の父母様のご理想を具現化された容(かたち)として、全てはここから始まると云う事です。)初期の先輩食口は真の父母様から直接ご指導頂き、寝食を共にしてまず、「真の父母」ありきが当然だったと想いますが、私達が原理のみ言葉に触れた時、即ざに真の父母様に情がゆき「真の父母」の価値と立場を知りえたでしょうか?!。重要な事は原理を学ばれた受講生に愛の絶対主体であられる神様が存在されるならば、絶対相対(対象)が必然的に最初から存在せねばならないはずだと問掛けて、彼ら(彼女)等に考えてもらうのが効果的と思いますし、青年、中高生は云うに及ばず小学生の中高学年生の集会、礼拝時からもわかりやすい言葉で同じ内容の問いかけをすることが重要だと思います。まず、「真の父母」在りきというインパクトが最初にあたえられる事によって、またメシヤが「真の父母」に成られるというよりも、「真の父母」のみメシヤ、救世主であると彼らの脳裏、心情に刻まれたならば信仰の原点にもなり、必然的に分派問題解決の一助になるのではないかと想います。
追記..............この文章は最初に書きました様に、真のお父様御聖和以後様々な問題(とりわけ安部元総理暗殺事件に端を発する昨今の内外の諸問題)が起こるにつけ、結局「真の父母様」の価値と立場がわからなければ何もわからない。分からなくなってしまうと改めて考えさせられ、想うがままに書き綴ったものですが、最近出版された「天の父母様聖会」本の中に「天の父母様」の絶対相対であられる「真の父母様」が創造以前から「天の父母様」の構想のなかに存在されて居られたみ言が「原理原本」、「文鮮明み言葉撰集」から引用されていましたので改めて記させて頂きます。(何故、もっと早く出版されなかったのかと残念な思いも禁じえません。)...................「真の父母」と云う言葉は神様の創造が始まる以前からあった言葉です。神様によって関係を結んだ全ての理想は、「真の父母」を中心とする真の愛の理想を表題として出発したので「真の父母」という言葉は創造以前から願われた希望の言葉だった事を知らなければなりません。神様は創造される時、理想とした全ては「真の父母」という目標を中心として万物をつくったのです。「天の父母様聖会」本......より
  共産主義の本質は「悪魔崇拝」サタニズムだったという、カールマルクスについての信仰遍歴、クリスチャンから悪魔主義者へとマルクスに影響を与えた人物や、彼を取り巻く人々のマルクスに対する人物評価また、時代、民族背景、家庭環境等、重要文献を元に今まであまり知られていなかったマルクスの人間像が、浮かび上がってくる貴重な本がありますので、まだ読まれていない方は(二世、三世にも)是非、一読をお勧め致します。(「マルクスは悪魔主義者か?!。」R・ウォムブランド・著者(現在は、絶本?手に入れにくいかもしれません。)「マルクスと共産主義の本質は悪魔崇拝(サタニズム)だった。」在田実(小石泉)ヒカルランド定価=2000円+消費税 本屋さんで注文すれば、取りよせられるとおもいます。)現在の家庭連合の置かれている状況が、よりわかるのではないかと思います。

「真の父母様」の価値と立場   ④

(創造本然のアダム、エバの「真の父母」がいつも一緒に暮らす真なる家庭を(神身)親身になって考えれば、ご子女様御一人御一人に対しての私たちの見る目も、あるいは違うものになるかもしれません。私見ですが、仮にイエス様がご家庭を持たれたとしても、当時の状況からしてやはり困難を極めたであろう事は、想像に難くありません。また真の父母様を自分の生みの親として接するのか、それともご自身の年齢、立場に関係なく、如何なる理由があろうとも徹頭徹尾人類の「真の父母」として接する事が出来るのか、これがご子女様達にとって、最も過酷な試練となるでしょう。ましてや神様(天の父母)様の願いである「真のご家庭」として、世の模範となるべき家庭の姿を現わす事が出来るのですから。)。しかし「真の父母」は何を置いても、まず全人類(カイン圏)を愛さなくてはなりません。(私たち祝福家庭の失敗を、サタンに讒訴された時、サタンとの約束で真のご家庭と引き換えにされたと云われています。この事をどれ程私たちは自分の責任として、深刻に受け止めているでしょうか?!。)ご家庭を、子女様達を犠牲にせずには行かれぬ道です。自分の子供さえ、真ともに育てられない者が、何が人類の「真の父母」かと非難されながら、それでもひたすら愛し続けて行かれるのは何故でしょうか。重要な事は死以上の恥辱と忍耐と死後の汚名を覚悟してまでなした摂理の中心者、信仰者、彼ら、彼女らの行為は結局誰の為になされたのか、真の父母様と「真のご家庭」の犠牲も誰の為の犠牲だったのか?!。ということです。...........(クリスチャンはイエス様は自分の身代わりに十字架に架かられたと心の底から自覚し、ついにはイエス様を十字架につけたのは自分だと悟った者が真のクリスチャンだと言いますが、クリスチャンを食口にイエス様を真の父母様、ご家庭に十字架を犠牲に置き換えればどうでしょうか?!。)全ては罪人たる私の救いの為(個人、家庭、氏族、民族、国家、世界と続くために)以外の何ものでもない事を、はっきりと自覚しなければ汚名を着た信仰者達、真の父母様(真のご家庭の犠牲)も決して浮かばれないでしょう。愛と憎しみは表裏一体と云いますが、今摂理の中心である韓半島の問題と統一家の問題はその事を象徴的に現わしています。ブログなどを見ていても神様の為、み旨の為、父母様の為と命がけで本当に苦労しながら頑張っている、頑張ってきた、古きも新しきも同じ統一家の兄弟姉妹達が(ご子女達におかれても)いずれの方たちもみ旨の為これが最善と信じているからこそ、それぞれ自分の指示する子女達に付き、あるいは自分の良心に忠実でありたいと非難合戦のごとくなることに大半の食口は心を痛めていると思います。しかし私達が真の父母様から学んだことは愛と責任は表裏同体だという事でした。私たちは知らなければ、関係なければ責任を持たなくても良いとするのですが、神様(天の父母様)がそうであるように、真の父母様はどこまでも責任をもとうとされます。真のお母様のもとを離れ、それぞれご自分の信じる道を歩まれておられる顕進(三男)様また国進’(四男)様享進(七男)様が神様とサタンの前に出て審判を受けられた時、(真のお母様の事を想えばこそ)自分こそが真のお父様から責任を任された者である、真の父母様の責任は自分が持つと誓われたとしても、歩みの結果如何(けっかいかん)に於いてはどうする事も出来ない場合があるかもしれません。しかし結果がどうあれ徹頭徹尾、最初から最後まで全てに於いて責任を持ち続けなければならない立場が「真の父母」です。(個人の5%の責任と云いながら結局尻ぬぐいをされているのは神様と真の父母様です。)..............教会に於いて、一般社会に於いて、食口同志、祝福家庭に於いて、御家庭におかれても全ての人間関係に於いてアベル、カインの問題は、常に私達の前に立ちはざかる大きな問題であり試練ですが、これこそ愛と責任を私たちに問われていることでしょう。堕落によって「真の父母」になる事が出来なかったアダム、エバによって生まれたカインとアベルは真の愛と責任を自覚出来なかったが故に、殺人と云う悲惨な結果をもたらしてしまいましたが、私達には勝利された「真の父母様」がおられるのです。アベルの立場であれ、カインの立場であれ上下関係、立場を超えて真の愛を中心に「真の父母様」の心情、事情すなわち「真の親」=「天の父母様」の心情にたたなければ、決して解決できない事を学んだのです。(想うに...アベル、カインの問題はすでに天使長ルーシェルに対するアダム、エバの対応に現れていたに違いありません。アダム、エバがルーシェルに対し兄の様に侍り、感謝して「真の愛」=「為に生きる愛」で接していたならば果たして堕落は起きていたでしょうか?!。未完成期とはいえ思いやり心がどれほどあったのか、主人と僕の立場はあったとしても「真の愛」育む成長を「天の父母」=神様は見ておられたに違いありません。

「真の父母様」の価値と立場   ③

最も、先進国では男女平等という事で、だいぶ解消されてきている様に見受けられていますが、これは単なる男女の権利が同じだと云う事だけで、神様の性稟である二性性相の実体としての創造本然の男性格、女性格の尊さを知ったうえで主張している分けではないので当然の事ですが、権利ばかり主張するという弊害も出てくるわけです。(よく当たり前の様に使う「平等」「対等」という言葉も差別を前提としたものですから、唯物的で人間の尊厳を低くしている事に気づくべきです。)人類史上、ようやく勝利され「真の母」として神の国を建国すべく、志半ばで聖和された真のお父様に続き、歴史上全てのエバの代表として、エバの蕩減の道を歩み、忍耐、勝利され「真の母」=「真の父母」として霊界のお父様と一体となられ、歩まなければならないのが、地上において現在の真のお母様に課せられた責任と立場です。お母様は「真の母」として、創造本然のあるべきエバとしての言動をされていることを、理解しなければならないでしょう。「独り娘」発言をはじめ、混乱を招く事を覚悟のうえであえて発言せざるを得ない事に、また晩年の真のお父様の言動やお母様と子女様や私たちにはノア家庭、ノアとハムの時と似た事がおこっています。いずれにしても過去の教訓を踏まえて、私たちが孝子としてお支えしてゆくことの、愛と信仰の責任を問われているのです。復帰歴史に於いてヤコブがエソウを自然屈服させるまで、聖書には詳しく記されてはいませんが、原理講論では復帰摂理に於いて、妻ラケルがなくてはならない存在として記されている様に、真のお父様が金日成を自然屈服成らしめた時、また、旧ソ連邦崩壊の決定にゴルバチョフ夫妻が真の御父母様との会見をとうして確信を持つ事が出来た時、「真の父母」としてのお母様の存在が私たちが考えて以上に遥かに大きかったことを、そして全てにおいて真のお母様の忍耐と愛と責任を意識せねばなりません。また、堕落の根幹ともいうべき「性、姦淫」の問題でいわれている「六人のマリアの悲劇」についても単なるスキャンダルのごとく否定したり、心の中に蟠り(わだかまり)として持ったままでなく、背後の事情を復帰歴史で祈り考えながら、心情に通じる事でお母様の立場「真の父母」の立場をより理解できるのではないでしょうか。復帰原理によると聖書の中に姦淫を犯した二人の女性が、復帰摂理を進めるうえで重要な役割を果たした事が書かれています。一人はタマルであり、もう一人はイエス様を産んだマリアですが、二人は好色でふしだらな女性だったでしょうか。全く正反対です。淑女中の淑女であり、信仰者中の信仰者です。だからこそ選ばれた女性であり、聖書に記録されているのです。彼女達に姦淫の想いが微塵でもあれば、躊躇なく死を選ぶでしょう。いづれも啓示によるものですが(タマルの場合は血統を残す重大な使命があるために止む無く、手段を選ばない行動が自発的になされた様に記録されていますが、これだけ摂理上重要な事件に神様が介在されないわけがありません。)啓示を受けた時いくら神様の指示とは故、決断するまでにどれ程悩んだ事でしょうか。石打の刑のおそろしさより、おそらく二人とも余りの屈辱感に、死んだほうがよほどましだと何度も、想ったことでしょう。一方、男性であるユダ、ザカリヤもまた立派な信仰者です。彼らにとっても恥辱であることに違いありません。(ユダにおいては、酔ったうえの出来事として聖書に記録されています。)生涯ぬぐい去ることは出来なかったはづであり、死後の汚名を恐れたはづです。復帰歴史は蕩減歴史であり、しかも中心課題ともいうべき(祝福=血統転換、重生)における「性、姦淫問題」が関わるなら、どの時代においても関わった信仰者たちは皆、死以上の恥辱と忍耐と死後の汚名を覚悟したはずです。蕩減とはいえ、一連の出来事と関わりを持たざるを得なかった中心者、信仰者達にたいし、背後の深い事情も知らず、単に非難するのはあまりにも浅はかと言わざるを得ません。また、ご子女様の問題等、ご家庭の犠牲と云う時に、犠牲はたいていご子女様に対して言われる事が多いのですが、(ご子女様、もうしわけありません。と思いながらも、心の何処かにそれでもご子女達は食口達にかしづかれ、経済的になに不自由なく暮らし好きなことをしていると。)子が親を思う、心に勝る親心といいますが、御父母様ご自身が証されておられる様に、親としてどれほどご子女様達と一緒に生活をされ、直接養育、ご指導されたかったでしょうか。もし、それが叶っていたならば真のお父様は今の時に聖和される事もなく、天寿を全うされ、一連のご子女様達の犠牲や問題も起こるはずがなかったのです。ご子女様達にとってもどれ程幸せな事だったでしょうか。