onmanseisiyouriのブログ

多聞天の様に真実を聞く耳を持ち、広目天の様に真実を見据える

諸感録 ①

(大海原
 大海原の前に、小さな波の存在などはすぐに忘れ去られてしまうだろう
いや、小さな波の存在などは、最初から見えないかも知れない。悲しいかな、煩夫の行く大海原、即ち、み旨の道はどうであろうか?。小さな波の一つ一つが、大海原を創っている事を意識し、気付かねば真に大海原を観る事はできない。




(神の実在)
 どんなに信じても無いものはないし、信じなくてもあるものはある。普段は、決して神の存在を意識しない人においてさえも、彼の最愛のものが失われるとしょう?。彼は必ず神を恨むであろう!



(神との出会い)
 求めよ。さらば与えられん。叩け、そうすれば開けてもらえるであろう。人は自己という、その人にまとわりつく、ありとあらゆる殻を打ち破り、
全く赤裸々になった時、はじめて神に出会うに違いない。しかもこれは一瞬のうちか、全生涯のうちなのか誰もわからない。



(涙)
 幾多の時の流れは、幾多の人の涙。
 幾多の人の涙は、神の幾多の涙。

高額献金or高額感謝献金 ②(所有権)

もし、神様が人(人間)を全世界が一望できる所に連れて行き、この世の中であなたの物はどれかと問われれば人(人間)は何と答えるでしょうか?。あれが、これが私の苦労して手に入れた土地、家、家族、財産また、先祖伝来の法的にも認められた私の物ですと、しかし神様はその人(人間)に聞くでしょう。そもそもあなたの土地、家、家族、財産、その他これらに付帯する諸々の環境は何処にあるかと、日本に住む人(人間)であれば日本の何処そこにと、では日本は何処にあるのかと、アジアの、アジアは世界の、地球の、太陽系の、銀河系の、この宇宙にの中にあると云う事でしょう。では、この宇宙は誰のもなのでしょうか?。何事にも原因の無いものはありません。宇宙の創造も原因があるはずです。この第一原因を神様(創造主、天の父母様)といいます。神様は云われるでしょう。あなたは私に無断で私の創造した物を、あなたがたの勝手な契約で勝手に使っていると、いつ、私に許しを得たのかと、これに人(人間)は何と答えるでしょうか?。答えは二つです。一つは神様を抹殺する事です。現に人(人間)はそうしています。しかし、神様の所有の中には人(人間)自身も含まれています。人(人間)自身こそが神様の所有の愛のカギです。一切の所有者、創造主神を殺して人(人間)自身がどうして立ち行く事が出来るでしょうか?。もう一つの答へしかありません。所有物は元の所有者に返すべきです。そして、この所有者から借り受けて、この所有者のすなわち、神様(創造主、天の父母様)の願われる事に全ての所有物は使用されるべきでしょう。そうする事によりはじめて全ては人(人間)自身の物となるです。

高額献金or高額感謝献金  ①

想い起こされるのは、ノアとノア家庭のことです。ノアは神様への信仰ゆえに義人とされ、召しいられて洪水審判の時に家族と神様から指示された生き物と共に、ノア自身が造った箱舟によって生きのびる事ができました。聖書暦で100年間(復帰原理では120年間)ただひたすらノアが平地ではなく、山頂に神様から啓示を受け、命じられた箱舟を造り続けた事は、想像を絶することです。(神様から祝福を受けていたノアの事ですから、恐らく財力もあり、裕福な家庭環境であったに違いありません。)現代技術でも難しい建造物である箱舟をノアが最初から一人で造ろうとしたとは思えません。人を雇い、家族たちもそれなりに協力をしていたでしょう。しかし、時が永くなっていくにつれ、財産も使い果たし(恐らく借金に走り回っていたはずです。)親戚、知人からも疎んじられるようになると、(昨今もそうですが.........唯物的で地に暴虐が満ち溢れ、甚だしく不信仰な時代と記されています。)世間からの風当たりもいよいよ強くなり、嘲笑の基となっていたはずです。一方、家庭内において家長の権限は絶対だとしても、ノアの人柄からして家族に有無を言わさず、苦労を強いたとは思えません。しかし、結果的に家族は貧困でどん底の苦労を味わったはずです。ノアの家庭の事は聖書ではほとんど触れられていませんが、洪水審判が終わりノアが神様から祝福を受け、アダム、エバの失敗以来、再び人類始祖というべき立場に立ったのです。しかも摂理の中心である家庭単位としての立場です。しかし、ここからが蕩減復帰における重要な内容でした。ノアが農夫となり、ブドウ畑での収穫を終え、ブドウ酒を飲んで酔って裸で寝ていたところをハムの末子であるカナンが見つけてハムに告げると、ハムもノアの裸を見てセムとヤぺテを呼び着物で父親の裸を覆ったのですが、ノアの酔いが冷めて末子カナンがとった行動に対して、「カナンは呪われよ」との記録が有ります。復帰原理ではこの記録の意味が解説されておりますが、ここまでに至るノア家庭一人一人の通過してきた心情の世界を、考えてみなければなりません。名門として財力もあり、不自由なく暮らしていたノアの家族が、ノアが神様の召命を受たばかりに、全てを失ってしまうドラマが展開されたわけですが、最初は信仰的でおおらかな父親ノアを尊敬していた家族であったとしても、段々と父親であるノアが箱舟造りに没頭し家庭を顧みなくなってくると、(しかも、全財産を貢こんだだけでなく、親戚中に借金を重ねたあげく、愛想をつかされている事に)母親であるノアの妻が、まず子供たちのことを想い非難したとしても当然で、母親の苦労を見て育った子供たちはどうでしょうか?。とりわけ母親想いのハムは成長するにつけ、ノアに対する目が懐疑的になってくるのは無理からぬことでしょう。復帰原理からすればハムはアベルの立場であり、兄弟の中でも神様から祝福を受けた立場ですから、リーダ格だった事が伺える場面が描かれており、ノアの裸を覆うためにセムとヤぺテがすぐに駆け付け、ハムの指示に従った事からもわかります。確かに大洪水審判を目の当たりして、さすがのハムも父親ノアに対して感謝と敬服をした事でしょう。しかし、歳月が流れ、現実の生活の中でやはりハムが中心になって働いたと思いますが、洪水後の大地の開拓は、大変だったと思います。猫の子の手も借りたい時なのに、ハムの目に父親ノアは、勝手気ままな呑気者に見えていた事でしょう。そして、この様子を一部始終見ていたカラス(サタン)は、ほくそ笑んでいたのです。また、どうしてノアが摂理に失敗した張本人であるハムを呪わず末子であるカナンを呪ったのでしょうか?。カナンも父親ハムの影響を受けていたであろうし、カナンはハムにとって、お気に入り、最愛の息子だったに違いありません。