onmanseisiyouriのブログ

多聞天の様に真実を聞く耳を持ち、広目天の様に真実を見据える

「真の父母様」の価値と立場   ③

最も、先進国では男女平等という事で、だいぶ解消されてきている様に見受けられていますが、これは単なる男女の権利が同じだと云う事だけで、神様の性稟である二性性相の実体としての創造本然の男性格、女性格の尊さを知ったうえで主張している分けではないので当然の事ですが、権利ばかり主張するという弊害も出てくるわけです。(よく当たり前の様に使う「平等」「対等」という言葉も差別を前提としたものですから、唯物的で人間の尊厳を低くしている事に気づくべきです。)人類史上、ようやく勝利され「真の母」として神の国を建国すべく、志半ばで聖和された真のお父様に続き、歴史上全てのエバの代表として、エバの蕩減の道を歩み、忍耐、勝利され「真の母」=「真の父母」として霊界のお父様と一体となられ、歩まなければならないのが、地上において現在の真のお母様に課せられた責任と立場です。お母様は「真の母」として、創造本然のあるべきエバとしての言動をされていることを、理解しなければならないでしょう。「独り娘」発言をはじめ、混乱を招く事を覚悟のうえであえて発言せざるを得ない事に、また晩年の真のお父様の言動やお母様と子女様や私たちにはノア家庭、ノアとハムの時と似た事がおこっています。いずれにしても過去の教訓を踏まえて、私たちが孝子としてお支えしてゆくことの、愛と信仰の責任を問われているのです。復帰歴史に於いてヤコブがエソウを自然屈服させるまで、聖書には詳しく記されてはいませんが、原理講論では復帰摂理に於いて、妻ラケルがなくてはならない存在として記されている様に、真のお父様が金日成を自然屈服成らしめた時、また、旧ソ連邦崩壊の決定にゴルバチョフ夫妻が真の御父母様との会見をとうして確信を持つ事が出来た時、「真の父母」としてのお母様の存在が私たちが考えて以上に遥かに大きかったことを、そして全てにおいて真のお母様の忍耐と愛と責任を意識せねばなりません。また、堕落の根幹ともいうべき「性、姦淫」の問題でいわれている「六人のマリアの悲劇」についても単なるスキャンダルのごとく否定したり、心の中に蟠り(わだかまり)として持ったままでなく、背後の事情を復帰歴史で祈り考えながら、心情に通じる事でお母様の立場「真の父母」の立場をより理解できるのではないでしょうか。復帰原理によると聖書の中に姦淫を犯した二人の女性が、復帰摂理を進めるうえで重要な役割を果たした事が書かれています。一人はタマルであり、もう一人はイエス様を産んだマリアですが、二人は好色でふしだらな女性だったでしょうか。全く正反対です。淑女中の淑女であり、信仰者中の信仰者です。だからこそ選ばれた女性であり、聖書に記録されているのです。彼女達に姦淫の想いが微塵でもあれば、躊躇なく死を選ぶでしょう。いづれも啓示によるものですが(タマルの場合は血統を残す重大な使命があるために止む無く、手段を選ばない行動が自発的になされた様に記録されていますが、これだけ摂理上重要な事件に神様が介在されないわけがありません。)啓示を受けた時いくら神様の指示とは故、決断するまでにどれ程悩んだ事でしょうか。石打の刑のおそろしさより、おそらく二人とも余りの屈辱感に、死んだほうがよほどましだと何度も、想ったことでしょう。一方、男性であるユダ、ザカリヤもまた立派な信仰者です。彼らにとっても恥辱であることに違いありません。(ユダにおいては、酔ったうえの出来事として聖書に記録されています。)生涯ぬぐい去ることは出来なかったはづであり、死後の汚名を恐れたはづです。復帰歴史は蕩減歴史であり、しかも中心課題ともいうべき(祝福=血統転換、重生)における「性、姦淫問題」が関わるなら、どの時代においても関わった信仰者たちは皆、死以上の恥辱と忍耐と死後の汚名を覚悟したはずです。蕩減とはいえ、一連の出来事と関わりを持たざるを得なかった中心者、信仰者達にたいし、背後の深い事情も知らず、単に非難するのはあまりにも浅はかと言わざるを得ません。また、ご子女様の問題等、ご家庭の犠牲と云う時に、犠牲はたいていご子女様に対して言われる事が多いのですが、(ご子女様、もうしわけありません。と思いながらも、心の何処かにそれでもご子女達は食口達にかしづかれ、経済的になに不自由なく暮らし好きなことをしていると。)子が親を思う、心に勝る親心といいますが、御父母様ご自身が証されておられる様に、親としてどれほどご子女様達と一緒に生活をされ、直接養育、ご指導されたかったでしょうか。もし、それが叶っていたならば真のお父様は今の時に聖和される事もなく、天寿を全うされ、一連のご子女様達の犠牲や問題も起こるはずがなかったのです。ご子女様達にとってもどれ程幸せな事だったでしょうか。